グラムシ・セレクション
2004年4月21日 読書
ISBN:4582763928 単行本 片桐 薫 平凡社 2001/04 ¥1,365
あまりの頑な青年的発想に時折反吐が出そうになるくだりもあるが(特にロシア革命前後のに書かれたもの),この人のオリジナリティあふれる言説やメタファには感心させられるものがある。
本書は,有名なサバルタンやヘゲモニーはもちろん,多重構造の田舎ものや陣地戦や受動的革命など魅惑溢れる概念の宝庫であるグラムシの著作群を編者が勝手に切り貼りしたものである。というと編者に喧嘩売ってるようにも聞こえるがそういうことを言いたいのではなく,本書がグラムシの「著作」では無くマイニングを受けた二次データである,ということが言いたいのである。
未だコトバに中身がついてゆかない気もするこれらの概念は,生成時から少しずつ熟成され,70〜80年代にサイードやチョムスキー,ポスト構造主義などを経由し,最近ではスパビック,ジジェクらの"現役者"による著書のタイトルにすらなってしまう重要な見出し語になっている。
ただし,たった今ここに書いた文と同の如く,それら概念が単なる固有名の羅列,頭の中の蛙的表層の戯れに留まるならば,マルタ会談は再帰的に訪れることになる。グラムシ自身,本書で触れているが,辞書的知識の集積は儚く,今ではWebクローラーなんかが毎日ぼくらが寝てる間にせっせとやってしまう程度ことである。
このグラムシの思想について,正直なところまだ1/3ぐらいしか読んでいないが,魅惑的なメタファと裏腹の悲しい戯れを感じざるを得ない部分がある。例えば,このイラクの状況については何が言えるか?少なくともサイードの「オリエンタリズム/パレスチナ」についての思想(もちろんグラムシを参照しているが)の方がぼくにはもっともらしく聞こえる。
ここで重要な問題となるのは,「ノート」や「手紙」以外にグラムシの「主著」が無いことにある。それだから時に過剰なテクスト分析まがいなことが始まるのだ。似たようなことは,主著はあるがそれがアフォリズムの体裁をとるウィトゲンシュタインにもあてはまるのではないだろうか。
あまりの頑な青年的発想に時折反吐が出そうになるくだりもあるが(特にロシア革命前後のに書かれたもの),この人のオリジナリティあふれる言説やメタファには感心させられるものがある。
本書は,有名なサバルタンやヘゲモニーはもちろん,多重構造の田舎ものや陣地戦や受動的革命など魅惑溢れる概念の宝庫であるグラムシの著作群を編者が勝手に切り貼りしたものである。というと編者に喧嘩売ってるようにも聞こえるがそういうことを言いたいのではなく,本書がグラムシの「著作」では無くマイニングを受けた二次データである,ということが言いたいのである。
未だコトバに中身がついてゆかない気もするこれらの概念は,生成時から少しずつ熟成され,70〜80年代にサイードやチョムスキー,ポスト構造主義などを経由し,最近ではスパビック,ジジェクらの"現役者"による著書のタイトルにすらなってしまう重要な見出し語になっている。
ただし,たった今ここに書いた文と同の如く,それら概念が単なる固有名の羅列,頭の中の蛙的表層の戯れに留まるならば,マルタ会談は再帰的に訪れることになる。グラムシ自身,本書で触れているが,辞書的知識の集積は儚く,今ではWebクローラーなんかが毎日ぼくらが寝てる間にせっせとやってしまう程度ことである。
このグラムシの思想について,正直なところまだ1/3ぐらいしか読んでいないが,魅惑的なメタファと裏腹の悲しい戯れを感じざるを得ない部分がある。例えば,このイラクの状況については何が言えるか?少なくともサイードの「オリエンタリズム/パレスチナ」についての思想(もちろんグラムシを参照しているが)の方がぼくにはもっともらしく聞こえる。
ここで重要な問題となるのは,「ノート」や「手紙」以外にグラムシの「主著」が無いことにある。それだから時に過剰なテクスト分析まがいなことが始まるのだ。似たようなことは,主著はあるがそれがアフォリズムの体裁をとるウィトゲンシュタインにもあてはまるのではないだろうか。
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