毎日がスペクタコー
2003年10月31日"THE SNOWMAN"を思い浮かべながら,
あるいは,
ムーミン谷のその年最後のスープを思い浮かべながら,
ENYAを聴くとものすごく暖かな錯覚に
陥ることができます.
栗洲鱒の予定が無い君,
まだまだチャンスはあるかもしれないが,
一人だって暖かいクリスマスはあるぞ.
心配ない.
my friends,
aint talkin bout love !!!
ってぜんぜんENYAじゃねーや.
***引用***
見慣れたはずの町並みも
ド派手に移す愚か者
君のせいで大きくなった未来
夢の世界と裏腹の
苦し紛れ独り言も
忘れられたiceのように溶けた
だれかれ隙間を抜けて
おかしな秘密の場所へ
君と行くのさ 迷わずに
***引用終わり***
今日初めて買ったd/SIGNという雑誌は今一だった.一見骨太な感じの文章群につられて衝動買いさせられたのだが.いざ読み始めると一反木綿よりも薄っぺらいことに気づく.
薄っぺらいことを薄っぺらく書くならば良いが,薄っぺらいことを偉そうなオカズで飾り立てるのは中指糞飯ものだ.
たとえば,
「アメリカという国は最初からポストモダンに作られていました。」
この文章は字義的にも隠喩的にもナンセンスである,すなわち,真でも偽でもありえない言わば「現在の仏国の王は禿げである」と同等に虚ろな命題である.
また本誌は全体的に衒学者の集まりだ.ヴィリリオはまだしも,フーコーだとかデリダだとかフロイトだとかブルトン(しかも「ロートレアモンの手術台」のもはやcliche的議論)などの"大御所"が無関連に引用されている.(もちろん一見かれらを引用する理由がありそうには見える).だがよく読むとまったくもって引用の必然性が感じられないのだ.いや,デザインだからあくまでも,固有名詞の配置のバランスだとかそういうところでは必然性があるのだろうか?!まぁでも世の中こういう事態ってよくあることなのかもしれない,「○○入門」だとか「いまさら人に聞けない○○」の類の氾濫然り.「入門」については,いざ入門後にさあ専門方向へブレイクダウンしようと思うと極端に情報量が減り,酷い時には権威的バイブルが一冊あるだけ,となってしまうのだ.うわっつら社会め,冥土の土方に斬られるぞ.
デザインやレイアウトはいわゆる現代思想と無関係ではないだろうが,それらは決して現代思想ではありえないのである.「思想」ではない?なるほど「ポストモダン」なる言葉はデザインにおいても現代思想においても登場するではないか?確かにそれは過去の事実だが,これはたまたま用いたタームが同一だっただけで,どちらかとういと「ポストモダン時代の思想」と「ポストモダン時代のデザイン」と切り分けるべきである.
同時代の思想とデザインの間に関連性が無いことはありえない.関連はあるが,そもそも両者には男と女以上の違いがあるのだ,混同すべきところではないと思うが,それを促するアホな衒学者のおかげで単語帳的"意味"が使用に還元される.実におかしな現象だ.
こんな雑誌を読むのだったら,フレミングの左手法則を思い出してみるほうがロト人|だったヨまったく.
♯モーリス・ブランショの追悼特集記事と茂木健一郎の文章は面白そう.
♯もちろんこういう俺も「○○入門」を読まない年は無い.
あるいは,
ムーミン谷のその年最後のスープを思い浮かべながら,
ENYAを聴くとものすごく暖かな錯覚に
陥ることができます.
栗洲鱒の予定が無い君,
まだまだチャンスはあるかもしれないが,
一人だって暖かいクリスマスはあるぞ.
心配ない.
my friends,
aint talkin bout love !!!
ってぜんぜんENYAじゃねーや.
***引用***
見慣れたはずの町並みも
ド派手に移す愚か者
君のせいで大きくなった未来
夢の世界と裏腹の
苦し紛れ独り言も
忘れられたiceのように溶けた
だれかれ隙間を抜けて
おかしな秘密の場所へ
君と行くのさ 迷わずに
***引用終わり***
今日初めて買ったd/SIGNという雑誌は今一だった.一見骨太な感じの文章群につられて衝動買いさせられたのだが.いざ読み始めると一反木綿よりも薄っぺらいことに気づく.
薄っぺらいことを薄っぺらく書くならば良いが,薄っぺらいことを偉そうなオカズで飾り立てるのは中指糞飯ものだ.
たとえば,
「アメリカという国は最初からポストモダンに作られていました。」
この文章は字義的にも隠喩的にもナンセンスである,すなわち,真でも偽でもありえない言わば「現在の仏国の王は禿げである」と同等に虚ろな命題である.
また本誌は全体的に衒学者の集まりだ.ヴィリリオはまだしも,フーコーだとかデリダだとかフロイトだとかブルトン(しかも「ロートレアモンの手術台」のもはやcliche的議論)などの"大御所"が無関連に引用されている.(もちろん一見かれらを引用する理由がありそうには見える).だがよく読むとまったくもって引用の必然性が感じられないのだ.いや,デザインだからあくまでも,固有名詞の配置のバランスだとかそういうところでは必然性があるのだろうか?!まぁでも世の中こういう事態ってよくあることなのかもしれない,「○○入門」だとか「いまさら人に聞けない○○」の類の氾濫然り.「入門」については,いざ入門後にさあ専門方向へブレイクダウンしようと思うと極端に情報量が減り,酷い時には権威的バイブルが一冊あるだけ,となってしまうのだ.うわっつら社会め,冥土の土方に斬られるぞ.
デザインやレイアウトはいわゆる現代思想と無関係ではないだろうが,それらは決して現代思想ではありえないのである.「思想」ではない?なるほど「ポストモダン」なる言葉はデザインにおいても現代思想においても登場するではないか?確かにそれは過去の事実だが,これはたまたま用いたタームが同一だっただけで,どちらかとういと「ポストモダン時代の思想」と「ポストモダン時代のデザイン」と切り分けるべきである.
同時代の思想とデザインの間に関連性が無いことはありえない.関連はあるが,そもそも両者には男と女以上の違いがあるのだ,混同すべきところではないと思うが,それを促するアホな衒学者のおかげで単語帳的"意味"が使用に還元される.実におかしな現象だ.
こんな雑誌を読むのだったら,フレミングの左手法則を思い出してみるほうがロト人|だったヨまったく.
♯モーリス・ブランショの追悼特集記事と茂木健一郎の文章は面白そう.
♯もちろんこういう俺も「○○入門」を読まない年は無い.
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