Si, si, si,
2003年9月18日"image acoustique"を「聴覚映像」とはよくぞ訳したと思うが適訳だとは決して思わない.だいたい,「聴覚」というコトバと「映像」というコトバの結合で一つの概念を運搬させちまおう,なんていうのは浅はかな衒学者の奢りだとつい穿った見方をしてしまう.寧ろ,語義を混乱させかねない危険な誤訳だとすら思う。ぼくなら簡単に「聴覚像」(あるいは「聴覚イメージ」)としたいところだが,もはや言語学の専門書を漁り,及ばざるが如き持論を考察する時間など無い.専門用語を把握することが実質的にその学問の基幹事業になってしまっているような学術領域にたいした価値など無いとぼくは思う.なるほど,そこでは,単語帳がバイブルなのだ."apple"の裏はかならず"りんご"でなくてはならない.衒学者の言葉を借りれば「シニフィエは必ずシニフィアンと結びつく」.一応,「シニフィエ無きシニフィアン」といった人もいらっしゃるようだが,ぼくにとってそれがコトバの戯れ以上に魅力的に韻く事はない.
無論ここで,専門用語をひとくくりに排斥しようなどとは思わないし,それが最適だとも思わない.ここにもやはり閾値を想定しなくてはならないだろう.
+++
「"あ"の聴覚像」というよりむしろ,
「"あ"という文字が書かれているのを目で見た時にある人間が想起する聴覚像」と言うべきである.
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完全に同一の聴覚像想起体系をもつ二人などいない.
+++
日本語−各種方言−ローカル新語
−学級レベル
−友人レベル
−家族レベル
−二人だけの言語
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A氏は’$_’という記号を「見る」と"a"と"ai"という聴覚像を想起する.
B氏は’$_’という記号を「見る」と"a"と"ei"という聴覚像を想起する.
C氏は’$_’という記号を「見る」と"b"と"ai"という聴覚像を想起する.
ここで,ある言語において"a"という聴覚像の,他の言語との識別能が比較的高い場合,「A氏とB氏の母国語は同一である」と推定することができるだろう.
以下は事実に忠実な記述のつもりである.
「M氏はベンダーとの打ち合わせのときに’warning’という記号を見ると,"wA’:niηu"という聴覚像をイメージするが,Paul Austerの小説中に’warning’という記号を見ると,"wo’:(r)niη"という聴覚像を想起する.しかし競馬新聞で"ウォーニング"という種牡馬の名前を見た時には,"wo’:niηu"を想起する.
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エクリチュールの解釈とは制限された寛容である.
+++
[引用]
恋なんて言わばエゴとエゴのシーソーゲーム
いつだって君は曖昧なリアクションさ
友人の評価はイマイチでも She So Cute
順番を待ってたんじゃつらい
これはすべての文字の聴覚像が日本語の引き出しの中から使用された場合に韻を踏むと言える.
+++
来週の学会発表ではtransliterationの議論を省く予定だが,想定QAには含めねばならない.
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「モーセと一神教」が文庫になった:
買おうか悩み中.「フロイト博士の最晩年の不思議テクスト」ということらしい.本書の解説モノはこれまでにいくつか読んだが,それらがぼくに与えた印象は「学術的なナリをしていない書物」であった.まぁもともとあまり学術書的なナリをしたテクストを生まないドクトルだとも思うが.
ここでは,思想家のテクストが「学術的なナリをしているか否か」ということはぼくにとってさしたる問題とはならない.
関心事としては,「モーセと一神教」でなにが明示的に否定されなにが明示的肯定されているのか,と言う事をまず知る事.その次にそれらがどのような非明示的否定/肯定をされているのかを掴むこと.
誰の論理でもよいが(もちろんフロイトの持論を含め),フロイトがそれらを論理を超えた地平で「否定」することはシリアスだと思う.
無論ここで,専門用語をひとくくりに排斥しようなどとは思わないし,それが最適だとも思わない.ここにもやはり閾値を想定しなくてはならないだろう.
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「"あ"の聴覚像」というよりむしろ,
「"あ"という文字が書かれているのを目で見た時にある人間が想起する聴覚像」と言うべきである.
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完全に同一の聴覚像想起体系をもつ二人などいない.
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日本語−各種方言−ローカル新語
−学級レベル
−友人レベル
−家族レベル
−二人だけの言語
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A氏は’$_’という記号を「見る」と"a"と"ai"という聴覚像を想起する.
B氏は’$_’という記号を「見る」と"a"と"ei"という聴覚像を想起する.
C氏は’$_’という記号を「見る」と"b"と"ai"という聴覚像を想起する.
ここで,ある言語において"a"という聴覚像の,他の言語との識別能が比較的高い場合,「A氏とB氏の母国語は同一である」と推定することができるだろう.
以下は事実に忠実な記述のつもりである.
「M氏はベンダーとの打ち合わせのときに’warning’という記号を見ると,"wA’:niηu"という聴覚像をイメージするが,Paul Austerの小説中に’warning’という記号を見ると,"wo’:(r)niη"という聴覚像を想起する.しかし競馬新聞で"ウォーニング"という種牡馬の名前を見た時には,"wo’:niηu"を想起する.
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エクリチュールの解釈とは制限された寛容である.
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[引用]
恋なんて言わばエゴとエゴのシーソーゲーム
いつだって君は曖昧なリアクションさ
友人の評価はイマイチでも She So Cute
順番を待ってたんじゃつらい
これはすべての文字の聴覚像が日本語の引き出しの中から使用された場合に韻を踏むと言える.
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来週の学会発表ではtransliterationの議論を省く予定だが,想定QAには含めねばならない.
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「モーセと一神教」が文庫になった:
買おうか悩み中.「フロイト博士の最晩年の不思議テクスト」ということらしい.本書の解説モノはこれまでにいくつか読んだが,それらがぼくに与えた印象は「学術的なナリをしていない書物」であった.まぁもともとあまり学術書的なナリをしたテクストを生まないドクトルだとも思うが.
ここでは,思想家のテクストが「学術的なナリをしているか否か」ということはぼくにとってさしたる問題とはならない.
関心事としては,「モーセと一神教」でなにが明示的に否定されなにが明示的肯定されているのか,と言う事をまず知る事.その次にそれらがどのような非明示的否定/肯定をされているのかを掴むこと.
誰の論理でもよいが(もちろんフロイトの持論を含め),フロイトがそれらを論理を超えた地平で「否定」することはシリアスだと思う.
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