tATuのたくらみどおりにマスコミが反応している
ように思える.どうでもいいけど,歌が上手いわ
けでも可愛いわけでもセクシーなわけでもないので
全く興味なし.無愛想で刺激的な言動をすることが
良いと思う世代だし,プロデューサ(?)が仕組んで
るようだし,勝手にやらせときゃよいのに.世界が
騒いでいるから日本も騒ぐ,というのは相変わらず
しょぼい日凡の一面だ.

夏のマンゴーーーーーーーーーーー伸ばしすぎだろ
が離れない.巷の小中学校では,かなりの確率で
濁点をはずす動きが見られるに違いない.それが
どんなものかよく知らずに…

***

以下愚痴です.つまらないから読まない方が良いです.

今日カフェで英語で話しているアジア人カップルが
いた.何人なんだろう,めちゃくちゃ日本人ぽい
顔だなァと思っていたら,めちゃくちゃネイティブ
の日本語を話し始めた.でた.
何の目的だか知らないが,日本国内で日本人同士で
日本語を話さないのは不思議な光景である.大学時代
よく英会話サークルの人間がそのへんの日本人だけで
英語で話しているはよくみた.

しかし,今回のカップルはよくわからなかった.
英語の時だけ声が大きかった.発音は良かった.

多分自らがバイリンガルであることに無意識かも
しれないが非常に価値を感じている様子.無論俺の
勝手な解釈かもしれないが.

本当のバイリンガルの友達が何人かいるが,
彼らが日本人だけのところで英語を話している
のを聞いたことが無い.
バイリンガルを目ざしている人も何人か知っている.
彼らはどんな場所でも相手が誰でも英語を話し
たがる.

ぼくからみると後者は「英語がある程度使えるのに
外国で多国籍な環境で日本語でしか話そうとし
ない人」と同類だろう.
前者の人はぼくと同意見の人が多い.勿論ぼくが
彼らから影響を受けているのかもしれないが.

バイリンガルだとか,トライリンガルだとか
タームが先行しているように思えてならないが,
どんな日本人だって,アメリカやイギリスに強制的
に送られてしまえば誰だってバイリンガルになる
のである.センスのある人は日本にいながらにして
そうなることができる.

だから,母国語以外の言語を使えることに大層な
価値観を置く事はぼくはしない.こういうぼくだって
ベッカムの英語は上手く聞き取れないし,「デフレ
スパイラルと金融危機について」の持論を英語で
話すことなどきっとできない.後者の場合,それは
ぼくが金融のことに通じていないことや,そもそも
そういうことに興味が無いので持論など無いから,
何語でも上手く話せないことと関係がある.

伝えたいことや,伝えたいニーズ,論理,利害関係
がある時,嫌でも上手く伝えるような努力をする.
だから,少し英語を話したら結構疲れている.その
意味では全く疲れない真のバイリンガルは尊敬に値
する.だが,日本にいて英語を使わなければならない
ニーズはそんなにないし「英語を話したい」と"漠然と
思う"ことも無いのでどうでもよい.

が,9月にニューオリンズ学会発表があるのだ.
公衆面前にてのスピーチ+質疑応答にはやはり
努力が必要だと自覚する.頑張ろう.

今日のカップルのような使う場所のセンスが悪い
バイリンガルは日本に蔓延する英語コンプレクス
(そしてそれはそのまま欧米コンプレクスへ..)
をますます悪化させる要因の一つを形成するよう
にも思える.

こういうぼくもきっと知らないところでこの欧米
コンプレクスの影響を受けていることだろうがこれは
ある程度しょうがない,そういう環境の日本で
育ってきたわけだから.そういう環境が悪いと
すら思わない.良いも悪いも無いのだ.ただ,
「そういう環境だった」のである.過去における
変えられなかった環境なんてそれくらいに思うの
が都合よい.

・ただ英語を話すだけで「かっこいい」と思う人,
・ただポルトガル語を話すだけで「かっこいい」と思う人,
・ただ中国語を話すだけで「かっこいい」と思う人,
日本において,この中のどれが一番多くてどれが
一番少ないかが瞭然であるのはどうかと思う.

ことばとは文化であり思考道具であり伝達道具で
あり,個人のアイデンティティでもあり,
そしてなにより他者と少しずつ共有するものである.

閉じた系は,密封した試験管の中での話である.
しかも,理論的な話である.

"人は規則に「私的に」従うことはできない.”
(PI,202)

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宝塚記念:
頭ネオユニヴァース,紐タップダンスシチー,アグネスデジタル.
穴は狙わなかった.シンボリは絶対こないと思った.

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