処女的鋼回帰曲線
2003年4月5日酔っているかもしれない。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
久々に家でキーを打つ。
雨が降ると右手が痛む。
ボブ・サップが泣いている。
スーパーボールを観て泣いている。
接続詞は眠っている。
短文も複線も単線も伏線もはらない。
リセツ的?
それとも,
論理輪標準形?
失われた時。こういうとセンチメンタリスト
の発言のように聞えるが,そうではない。
適切な日本語が無い。唯だ単に「過去」と
いうのとも違う。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇(メルマガ風)
まず,蜂の巣のようなキャンパスが目に浮かぶ。
午前10時頃中庭でウォークマンを聴きながら,
焦点を絞ると、視界が可愛い。どうしよう。
ああ,次の科目がはじまってしまうな,昼休み
にもう一度見かけたら話し掛けてみよう。
昼飯後さあて英単語帖でも見てやるかと
思っていた残り10分で例の娘を発見。
どうしよう。
…
結局話し掛ける勇気は無かった。
ここは受験会場なのだ。次の教科の英語で
差をつけなくてはという思いと,
完全に一目ぼれの貴重さとの天秤。
本当の一期一会と一目ぼれが重なった
めずらしい経験であった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
小学校の時、市が主催する林間学校に行った。
そこで仲良くなったタメの少年とは,
その後も別の林間学校に一緒に参加したり
年賀状を交換したりした。
縁が切れかけた中学の頃,ブラスバンドの合同
練習会でばったり再会した。
その後も演奏会や練習会で何度か会った。
そしてまた音信普通になった。
しかし,1度あることは2度あった。
思いもよらず東京から遠く離れた大岡山で
再会した。しかし,またもや受験の中休みで
あった。今回は後期だったので,みんな
どこかダメ元頽廃デカダンスの様相。
そんななか,
ごった返しのメインストリート本館側自販機で
彼が缶ジュースを買っている所を発見したのだ。
「あ,まさか!」
一瞬信じられなかったが,もっと近寄って確認
したかった。
ぼくは煙草に火をつけた。
それが永遠の別れに繋がったのか。
当然一浪し,
翌年晴れて入学してから大岡山を去るまでの
2年間,ぼくは密かに彼を探しつづけていた。
可能性は3つあった。
・ぼくが見かけた年に合格した。
・見かけた年に滑り止めに入学した。
・浪人して同じ大学に入学。
・浪人して別の大学に入学。
1番目と3番目の場合はキャンパスで見かける
機会は大だ。教養科目が多い1,2年は,
類をまたいだ授業が多かった。
in vain.
ぼくがオースター小説の主人公を演じている
ならば,きっとこのタイミングでの再々会は
ありえなかっただろう。しかし,いずれ会うのだ。
ステファン・キングの場合は多分もっともっと
時を経ない限りそれは叶わないのだろう。
もちろんぼくは誰かの作品中の登場人物では
ない。
「いや,もしかしてぼくは誰かの作中人物では
ないということは必ずしも言い切れない」と
いう俗な疑似センスは自意識過剰に由来する。
すなわち,ありえないことだ。
「夢が無い」のかもしれないが,
「オレハカミナンテ信じない」と言っただけで
夢が無い人間だと思われ得ることを考慮すると
「夢が無い」という表現はあくまでも間主観レベル
での一般化はできない問題に属すると思う。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
巨匠の作品に「たいしたこと無いじゃん」と
いう判断を下すことはわりと多い。コンテクスト
的に把握しなくてはいけない。もしそれが可能に
なると「たいしたこと無いじゃん」ではなく,
「絶対におかしい」という確信にすら繋がる
場合があるのだ。精子の中に小さな人間が
潜んでいる説しかり,ビートルズの犬用周波数
しかり。
「テキスト」と書くべきところを「テクスト」と
主張したら複数の博士からクレームがついた。
これだから困る,何が「日本語を大切にしよう」だ。
日本語を弄んでいるだけではないか。
"text"はあくまでも"text"であることは
タルスキにでもクワインにでも聞くと良い。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
実験的試み,アヴンギャルド.
ちなみに花田清輝の「アヴァンギャルド芸術」
の「アヴァンギャルド」はぼくの"private rule"
による"アヴァンギャルド"とも元の仏語の意味とも
違うように思える。
そもそも,「意味なんて!」.
言語処理学者は無条件に「辞書的意味」なるものを
仮定している。それは現象学者が世界を仮定しない
ことと対極的な誤謬に思える。が,
そんなことを立てつくつもりは無い。
どうせ理解して貰えないだろうし,
「自然的」研究者のすべてを真向から否定する
ことになりかねない。それは避けたい。
自然科学の恩恵は否定できないから。
完全なる分裂。
そこに哲学人の生を見出すヒンジはないのか?
逆に,「自然なる対象」の考究を,「命がけの飛躍」
を労することなく可能足らしめるゲルはないの
だろうか?!
心理学の成果を素直に取り込める第一哲学なる
概念はそもそもパラドクスなのか?!
そういう意味(辞書的ではなく)で眼球譚や,
箱男は何をいわんとしているのか。
walkin thru the ciry,
lookin oh so pretty
I’ve just got to find my way.
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
久々に家でキーを打つ。
雨が降ると右手が痛む。
ボブ・サップが泣いている。
スーパーボールを観て泣いている。
接続詞は眠っている。
短文も複線も単線も伏線もはらない。
リセツ的?
それとも,
論理輪標準形?
失われた時。こういうとセンチメンタリスト
の発言のように聞えるが,そうではない。
適切な日本語が無い。唯だ単に「過去」と
いうのとも違う。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇(メルマガ風)
まず,蜂の巣のようなキャンパスが目に浮かぶ。
午前10時頃中庭でウォークマンを聴きながら,
焦点を絞ると、視界が可愛い。どうしよう。
ああ,次の科目がはじまってしまうな,昼休み
にもう一度見かけたら話し掛けてみよう。
昼飯後さあて英単語帖でも見てやるかと
思っていた残り10分で例の娘を発見。
どうしよう。
…
結局話し掛ける勇気は無かった。
ここは受験会場なのだ。次の教科の英語で
差をつけなくてはという思いと,
完全に一目ぼれの貴重さとの天秤。
本当の一期一会と一目ぼれが重なった
めずらしい経験であった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
小学校の時、市が主催する林間学校に行った。
そこで仲良くなったタメの少年とは,
その後も別の林間学校に一緒に参加したり
年賀状を交換したりした。
縁が切れかけた中学の頃,ブラスバンドの合同
練習会でばったり再会した。
その後も演奏会や練習会で何度か会った。
そしてまた音信普通になった。
しかし,1度あることは2度あった。
思いもよらず東京から遠く離れた大岡山で
再会した。しかし,またもや受験の中休みで
あった。今回は後期だったので,みんな
どこかダメ元頽廃デカダンスの様相。
そんななか,
ごった返しのメインストリート本館側自販機で
彼が缶ジュースを買っている所を発見したのだ。
「あ,まさか!」
一瞬信じられなかったが,もっと近寄って確認
したかった。
ぼくは煙草に火をつけた。
それが永遠の別れに繋がったのか。
当然一浪し,
翌年晴れて入学してから大岡山を去るまでの
2年間,ぼくは密かに彼を探しつづけていた。
可能性は3つあった。
・ぼくが見かけた年に合格した。
・見かけた年に滑り止めに入学した。
・浪人して同じ大学に入学。
・浪人して別の大学に入学。
1番目と3番目の場合はキャンパスで見かける
機会は大だ。教養科目が多い1,2年は,
類をまたいだ授業が多かった。
in vain.
ぼくがオースター小説の主人公を演じている
ならば,きっとこのタイミングでの再々会は
ありえなかっただろう。しかし,いずれ会うのだ。
ステファン・キングの場合は多分もっともっと
時を経ない限りそれは叶わないのだろう。
もちろんぼくは誰かの作品中の登場人物では
ない。
「いや,もしかしてぼくは誰かの作中人物では
ないということは必ずしも言い切れない」と
いう俗な疑似センスは自意識過剰に由来する。
すなわち,ありえないことだ。
「夢が無い」のかもしれないが,
「オレハカミナンテ信じない」と言っただけで
夢が無い人間だと思われ得ることを考慮すると
「夢が無い」という表現はあくまでも間主観レベル
での一般化はできない問題に属すると思う。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
巨匠の作品に「たいしたこと無いじゃん」と
いう判断を下すことはわりと多い。コンテクスト
的に把握しなくてはいけない。もしそれが可能に
なると「たいしたこと無いじゃん」ではなく,
「絶対におかしい」という確信にすら繋がる
場合があるのだ。精子の中に小さな人間が
潜んでいる説しかり,ビートルズの犬用周波数
しかり。
「テキスト」と書くべきところを「テクスト」と
主張したら複数の博士からクレームがついた。
これだから困る,何が「日本語を大切にしよう」だ。
日本語を弄んでいるだけではないか。
"text"はあくまでも"text"であることは
タルスキにでもクワインにでも聞くと良い。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
実験的試み,アヴンギャルド.
ちなみに花田清輝の「アヴァンギャルド芸術」
の「アヴァンギャルド」はぼくの"private rule"
による"アヴァンギャルド"とも元の仏語の意味とも
違うように思える。
そもそも,「意味なんて!」.
言語処理学者は無条件に「辞書的意味」なるものを
仮定している。それは現象学者が世界を仮定しない
ことと対極的な誤謬に思える。が,
そんなことを立てつくつもりは無い。
どうせ理解して貰えないだろうし,
「自然的」研究者のすべてを真向から否定する
ことになりかねない。それは避けたい。
自然科学の恩恵は否定できないから。
完全なる分裂。
そこに哲学人の生を見出すヒンジはないのか?
逆に,「自然なる対象」の考究を,「命がけの飛躍」
を労することなく可能足らしめるゲルはないの
だろうか?!
心理学の成果を素直に取り込める第一哲学なる
概念はそもそもパラドクスなのか?!
そういう意味(辞書的ではなく)で眼球譚や,
箱男は何をいわんとしているのか。
walkin thru the ciry,
lookin oh so pretty
I’ve just got to find my way.
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