サップと

2003年2月5日
プルーストの「失われたときを求めて」を
また読み始めた.第3巻から.

学生時代に読み終えている予定だったが,
ドストエフスキーに優先度を与えたので
叶わず.

確か第1巻を読み始めたのは,
1年以上前のような気がするな.

そもそもジェラール・ジュネットのアレが
読みたくて,読み始めたようなものだった.

プルーストの文章に慣れないうちは,
苦労した.文章が長くて複雑で.
主語と述語(動詞)の間が長すぎて,
動詞がきたときには間の形容詞に気を取られ
名詞が何であったか忘れてしまう,という
ことも多々あった.仏語→日本語の不可抗力
もあるのかもしれない.

確かにプルーストの書くことは,
共感できるし,言わんとしている気持ちも
理解できることが多いが,そんな微細な
ことをそんな過大な比喩的言語を用いて
言い表すすべがこの世にあったのか,と
驚く.
同時に,その存在すら意識していなかった
ことだが,言われるとこころの窓にイメージが
浮かぶことがある.どうあがいても自発的
には発生しえないイメージ.
このイメージ表現は,各人において固有であろう.
逆にいうと,プルーストにできない事も
あると言う事だ.もちろんこれを非難や粗捜し
ととらないでもらいたいが.

プルーストの著作に接すると,
今まで「ぼくからみて完璧な作品だ」思われた
ものたちの隙間が徐々に明るみになり,そこから,
幾つかの価値が漏れ滴ることを経験するように
なるのむにだ.

         * * *

「外国人の名前は短い方が日本でのウケがよい」仮説.

羅列したいのに今は"ボブ・サップ"しか思い出せない.

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