東浩紀 にはあまりついて行けない.
ついていきたくない.
というかいろんな意味で氏の論に
ついていく能力がぼくに欠如している
のかもしれない.

「存在論的,郵便的」は良かったが,
ポストモダンやオタク論はなぁ.
昨日氏の新作を見つけたので
少しだけ立ち読みしたが,やはりついて
行けないという思いは増す.

一人の人間が使える時間は有限だから,
「散種」的に広がるデリダの言葉を
素早く的確に噛み砕きたい.がそのために,
皮相解説的なものを読んで理解したつもり
になるのは危険だ.でも翻訳の限界が...
 結局はいつも 
  → 仏語を勉強する
   → 言語を勉強するときには文字だけではだめだ
    → 耳から口からだけでもだめだ
     → 発話要求が実践的な文脈が必要
      → 最低でも駅前留学
       → 金と時間の問題
        
ある人Mが言語Lで書かれた文字を読んで意味がわかるだけでは,
「Mは言語Lを読む」とは言えるが,
「Mは言語Lに通じている」とは言えない.
ネイティブスピーカの文盲の事を考えても,
発達心理学的言語獲得過程をみても,
第二言語になったとたん自然の流れと逆になる.

何を言いたいか.仏語ではないが,
糞うざい日本の英語教育(少なくともぼくが
うけた中高の英語教育)は無用.語彙力はつくし,
センター試験の点も上がる.しかし一向に
英語を[勉強する]人は絶えない.
文脈とニーズ.
これを教育の場に導入するのは
難しいだろうが,そうでもしなきゃ
しゃべれたり,外国語で理解できたりしない
だろう.日本人同士での会話練習とか,
だらだらだらだら続ける英文和訳の時間には,
教科書の内側に隠した漫画を読んだほうが良い.

可読者の内部に,
「読めればよい」という「勝ち組み意識」が
あるからいけないのだろうか?
良く知らないが.

しかしまぁ,早口な英語をきかされたり,
英語を話すおばちゃんが,ぼくに対して
9歳のお子様に話しているかのような
調子になったりするのを目の当りにすると
まったくぼくもしょんぼり暮れてしまうのだが.

そういう言い逃れで2年ほど仏語やりたい欲が停滞.

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