ここ日本において,
「アメリカンドリーム」的な野望を抱くことは
すでに困難だ.
それは1990年代以降顕著化した.
若者は冷め切っている.

情熱より理性,
感覚より論理,

しかし,徒に流布している「論理入門書」を
みるかぎり,それらからは,論理の上澄みすら
吸収できないように思える.

資本,という語自身には,その後の
発展的膨張が含まれている. 
賞金〜あるいは一般的な「カネ」〜との違い.

「邪念」が「目標」,「目的」
果ては,「人生の目的」そのものにすら
成り得る.
本当の邪念は,「邪念ではなく」,
そして本当に不必要なのは本当の邪念である.

例えば,ステイタス,それは,
他者の意識に映る自己,
自己の意識に映る自己,
の過剰なる創作の残滓となる.

会社の先輩はぼくに言う,
「君は学歴というステイタスを親にもらった
のだから,それ以上言う事はないでしょう」
と.

足の裏の米粒くらいなら「取っ」も良いかな
とは思ったが,それですらステイタスの為では
ない.それを達成してしまった不幸な人間が,
幼児骨格回帰的教授になってしまうのでは
ないだろうか?

そんなことより,宴の席で
「ちん○こ」をだすぐらいが,
ぼくには気楽で良いのだが.

仮想的にの競争をでっちあげたり,
あらゆる微小な身体的逸脱を「病症」と
関連付けたりすることに,一体どんな
利益があるのだろうか?
宗教的逃避なのか.
もしそうなら,実に中途半端な逃避だ.
余命3ヶ月を宣告されてもなお,
それまで身についた生活習慣や悪癖を
止めない病人の笑み.

こんな世の中は不快にしか思えなくなる
ときが,日に日に増してくるが,
それも,他者-自己の円環を切断して
しまえば,どうでもよいことになる.
そしてそれが単なるニヒリズムとは違うと
信じる.

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