教授の化けの皮は剥がれ落ち,
今ではすっかり幼児の骨格が剥き出しになる.
助教授だけが頼みの綱だ.

フロイトについて.
まず,行き損なったウィーンの
フロイト記念公園とミュージアム.
蛇足的にウィトゲンシュタイン
の建てた家の位置もおさえたのだが.

大思想家と呼ばれる人にはたいてい,
多くのキーワードが附随している.

「町の精神分析医」ジークムント・フロイト博士.
一般的なフロイトの業績に対するイメージは,
いったいどんなものであろうか.
今やぼくは,この問いに対して主観抜きでは応えられない.

数多の系譜が,「フロイトの思想」に,
思想誕生から一世紀近くを経た現在でも
繋がっていることは,書物を見なくても
明らかである.

フロイトの「精神分析入門」と「夢判断」のみ
しか読まずに「フロイトの思想」を判断するの
はあまりに軽率である.大学時代の某大文学部の
友人もその軽率な一人であった.彼女は断定的に
こう言った,
「フロイトは何でもかんでもがむしゃらに性に
結び付けすぎる.」

彼女は明らかに,「トーテムとタブー」や
「機知と無意識」,「快感原則の彼岸」について
は未読でフロイトの思想を判断乃至はそれ自体を
軽視していた.

今日のぼくのことばがすでにpedanticなのは否めない.
だが,たまにはそれも決して悪いことではない
ように思う.敢えて若ガキの精神をいつもどこか
に持ちつづけヨ,との神託があったのだ.
 
ぼくなりに注目するフロイトの系譜キーワード
(もちろんアンチテーゼとしてそれを対置した
場合も含め)がいくつかある.

「タナトス」,「肛門期」,
「リビドー」,「ego/ido」…
 
・フロイト
  → ラカン → ドゥルーズ
        → ジジェク
        → クリスティヴァ
        → …
  → フーコー 
  → ブルトン
  → バシュラール
  → ブランショ
  → …

1995年突然自宅から飛び降りて死んだ
ジル・ドゥルーズ.フェリックス・ガタリとの
共著であり,20世紀の名著の一つとされて
いるらしい「アンチ・オイデプス」の冒頭
にはすでに「太陽肛門」のことばが登場
している.

「太陽肛門」といえば,バタイユ,
肛門的に「眼球譚」.太陽光の代わりに
言い換えれば,「眼球肛門」.
欧米人の「肛門」に対する執拗さと,
オイデプス的系譜をいち早く知るには,
一つの米スラングを覚えるだけでよい.

"You motherfuckin’ ass hole!"

ニューロン間の接続のすべての組み合わせと
「語る主体」を囲む外部環境の配置の組み合わせ
は無限であるのに対し,それを表現する言語の
組み合わせは極めて有限である.
巨大な衝撃を外部に表現する場合,
言語を扱うことの不自由を感じない時はない.

ラメルハートのコネクショニストモデル
(これはぼくの修士論文の重要なキーワードだった)や,
ホップフィールドのリカレントネットワーク
(これは卒論テーマ)
では,それらの事象をモデル化するには不十分だと
今あらためて思うようになった.

毎日歩く駅からの帰り道,
それは,一度として「同一」なることはないのだ.
たとえそれが昨日と「同一」であったとしても,
そのときの「語る主体」の思考や感情が
昨日と「同一」であることはないと言い切って良い.
「偶然」と「必然」が我々にはなかなか
判断できない時があることもこれとかかわりを
持つのかもしれない.
この辺の見事な描写はポール・オースターの
作品群のほとんどすべてにみられる.

リガンドがリセプターに結合すること,
アロステリック変化,
電荷の移動の「過程」(それはドゥルーズの
もちいる「過程」に重ねても良い),
そして変異を予め受容するようプログラムされているGCATやTATA配列,
(あるいは,)

セリーヌの作品中の「接続法半過去を多用する女性」と,デリダの「届かない郵便」には強いリンク
が張られており,そのことはまた,「間テクスト性」にたいした意味を見出せなくなることに繋がる.
これは,すべての人間のことばは他者の言語に
よる支配は免れない,ということで,何も,
文学的空間にのみ固有の概念でも何でもないのだ.

循環小数は無限であることは中学で学んだ.
「図書館は無限である」ことはボルヘスに学んだ.
しかし,自己への参照的な言及は決して「分析」
には成り得ない.
フロイトの「分析」すら,現在のぼくが意図して
いる意味での「分析」とは程遠いのも事実だが.
自己言及はパラドクスの雛型に収束される.
「このことばは嘘である」〜”嘘つのパラドクス”〜しかり.

ことばの表層的な戯れにだまされてはいけない.
今ぼくが用いた用語にしたって,
ぼくが本当に用いたいから用いているのではなく,
他にうまいことばが見つからないからやむなく
そうしているだけなので,しばらく時間が
経った後,ぼくのニューロンの配置が不可逆
変化を起こし,今日の思考に辿り着けなかった
(それは自らの今日の思考を自ら「陳腐化」させる
場合も含む)場合,それらをなるべくキーワード
により検索することを容易足らしめることが
目的なのだ.

とにかく,ぼくの思考の流転化はフロイトに
はじまった.高校時代の精神分析入門だった.
それに尽きる.それがあって,ある方向を目指し,
-常にそれを意識し続けることはなかったが-
ある系譜(上記の系譜とは全く別の)を踏んで
きたことは偶然のようにも思えるが同時に
必然でさえあるように思える.
しかし,これも完璧な自己言及.
故に妥当な分析ではない唯の「ことばの吐き溜め」
に陥る危険性は大きいので,これ以上無駄口を
叩くのはよそうと思う.

かつて,様相論理学では◇と□が導入された.
必然性と「可能」性.「可能性」ではない.

とにかく,
「語り得ぬものには沈黙を」から,
「考えるな!見よ!」なのだ.

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