世を衒う

2001年2月16日
何らかの言葉を世に残している人や,
何らかの研究にいそしんでいる人に
とって,自らの幻術がある意味「衒
学的」であることを認める事は非常
に興味深い.もしそれが「言葉」を
扱う人の場合はなおさら.

ウンベルト・エコという記号学者が
いた.そして,ウンベルト・エコと
いうベストセラー作家がいる.構造
主義批判からテクスト記号論そして
テクストの考察をするうちに自ら
テクストを産出そうとするいきさつ
には一見自然なものがあるように思
える.しかし,周りを見てみよ.彼の
ような二束草鞋があまりに少ないこと
を.ジャンル分けの妄想かな.

ロラン・バルトという記号学者がいた.
ロラン・バルトという物語論者がいた.
ロラン・バルトという言語学者がいた.
ロラン・バルトという美術評論家がいた.
ロラン・バルトという哲学者がいた.
彼は一体なにものなんだ?

ソシュールの功績と功罪.そのどちらに
も計り知れない力が宿り,現在にいたる
までその効力を発揮しつづけている.時
間の淘汰と批判と再認.チョムスキーが
そうなるにはまだまだ時間がかかるだろ
う.一人が「違うんだ!」と言ったとこ
ろで,その他大勢がある理論体系に盲目
的に従っている状況では均質で「客観的」
な「主観」(デカルト的2言論の虚弱さ含む)
は望めない.近年になり認知科学や
心理学,脳科学の発展に伴い,やっとそ
れらしい「客観的」な批判というものが
可能になってきたように思えるが.ちな
みに私がチョムスキーに頷ける部分は,
彼の言述のほんの一部でしかない.

ホルヘ・ルイス・ボルヘス.
彼は「短歌」を書いている.日本語を知
らないにもかかわらず.しかし,彼は既
に認めている.自らの著作におけるある
種の衒学性を.すばらしいことだ.

睡眠状態の言葉,もしくは,睡眠導入時
の言葉に憑依されたロベール・デスノス
は,夢とも現ともつかぬところから発し
ている概念がlexicalアクセスを受けた
類のさまざまな言葉を残している.しか
し彼はナチスの生贄にされたのだ.

デリダ-サール間の論争は,デリダの勝利
と思っていた.引用の可能性を例外視した
サールの非によって.しかし,それを例外
視しなかったとて,他に落とさざるを得な
いものが一つもないことにはならない.
言葉に関して,境界の問題は重要だろう.
ここからここまでが,会話A,そしてここから
が自己内対話Wだとか.もちろん,境界線
の引きかたは,ひとが1億人いれば1億通り
あるのだろう.

ミシェル・フーコーとルネ・マグリットの
間に交わされたいわゆる「パイプ書簡」.
両者の意見は錯綜の中局所的安定解に陥り,
マグリットの死によってそれがグローバルに
なる機会は失われたのだ.その後何時の間に
かフーコーも死に,いずれはこれを書いてい
るぼくも確実に死ぬ.残る言葉と残らない言
葉があるが,言葉が一度生まれた,という事
実は永劫性をもつ.直ぐに死んでしまう言葉
でも.

「好き」ということと,
「『好き』ということの理由を模索すること」

一見自分の主観がそのまま現れている表現,

「私は・・・だから・・・が好きだ」

それはきっとこう修正すべきだろう.

「これは,・・・と判断できるから,私はこれを
 好きであると言える一つの理由となる可能性
 があるの『だろう』」

すなわち,判断する部分は理性を用い,可能性
を打ち立てている部分にも理性を用いる.

もちろん,こんなことを日常的にいちいち
正しくいおうなんていう必然もないだろうし,
正しい,なんて思っているのはぼくだけなの
だから,他者にとってそんなことはどうでも
良いのかもしれない.

しかし,
なんて確率論に支配された考え方なのだ!
しかし,この世には盲目的に従うべきことの
ほうが多いのも事実である.そこには理性的
に「斯く斯くは正しい」という判断は存在し
得ない.ぼくにできるのは,自分が何に対して
理性的判断を下し,何に対して盲目的に従って
いるのか,ということを分類することくらいだ
ろう.

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